「この本はラブコメディだ」「この本は推理小説だ」といった明確な分類をすることができないでいる。近未来のテクノロジーをふんだんに使っているのでSFともいえそう。それに…認めたくないが確かにファンタジーの雰囲気もある。
人によって好みの分野とはあるけれども、どうかそれにこだわらず読んでほしいと心から思う作品だ。
「マレ・サカチのたったひとつの贈物」(王城 夕紀著・中公文庫)
マレ・サカチはある日突然「量子病」というい奇病を宣告された。彼女の意思に反して、ふいに自分の体が別の場所に「跳ぶ」という病気だ。テレポテーションってやつですな。跳ぶ距離はどんどん広がり、跳ばない時間はどんどん短くなる。この宿命を抱えたマレは、跳ぶ先々でさまざまな人と関わり合っていく。
物語を彩る手が届くようで届かないテクノロジー
この作品の読みどころは、物語に織り込まれるさまざまなテクノロジーだ。まずマレがかかった「量子病」はもちろんSFなのだが、ミクロの世界ではテレポテーションも現実のものだ。
光の粒子である光子は、水平方向と垂直方向との2つの方向性を同時に取る「重ね合わせ」ができるが、観測した時点でどちらかの方向性に決まるという性質を持つ。
ある一定の確率で毒ガスが発生する箱がある。ネコが箱の中にいて箱を開けていない状態では、ネコが生きている状態と死んでいる状態の「重ね合わせ」である。蓋を開けた時にネコが生きているか死んでいるか決まる。
という有名な思考実験「シュレーディンガーの猫」はテレビドラマの相棒14第17話「物理学者と猫」でも登場したな。
この光子は特殊な装置を使うとペアにすることができ、ペアをはるか遠く引き離したとしても、一方の光子が例えば水平方向だったとしたら、もう一方は垂直方向に確定するのだという。これが「量子のもつれ」と呼ばれる通信ネットワークみたいなものだ。
光子Aは光子Bと「量子のもつれ」関係にあり、互いに離れた場所にある。この片方の光子Aと別の光子Xをぶつけると、遠く離れたもう片方の光子Bの状態も変わり、光子Bが光子Xの状態になる。この仕組みで光子Xが光子Bを上書きコピーしたものになるのだ。…といった解説も物語のなかでさりげなく織り込んである。
光子だけでなく、それより大きな電子や原子などについてもテレポテーションできるらしい。ただし、マレのように大きな物質になってしまうと、かかわる原子の量が多いため、測定することが困難だという。というわけで、マレの量子病は今のところ空想の産物ということになるけれど、ミクロの世界では夢物語ではない、という絶妙のテクノロジーの選択が冴える。
最後の方には意識をネットに移住するという話が出てくる。脳をスキャンしてネットにインストールするというこれまたSFチックな話なのだが、ロシアでは実際に脳をアンドロイドに移植するという試みが行われている。>>目指すは不死の世界! ロシアで「アンドロイド」に人間の意識を移す計画が着々と進行中
このように手の届きそうで届かないテクノロジーが随所にちりばめられているのがこの物語の魅力だ。
跳んだ先で出会う人々の温もり
世界の経済が停止に向かったワールドダウンを食い止めた唯一の国、イギリスが経済破綻し、今やセカンドワールドダウンの危機にさらされている。世界は終末に向かっているという不安を抑えつけようとするように、毎日祭りが繰り返される。
不穏な空気をまといながらも、いや、不穏を感じてこそ、マレとマレが出会う人との温もりが際立って感じられる。特に引退前の靴職人が最後の一足を作るシーンとか大好き。老職人と彼を支える妻の描写も卓越している。
光子Bは光子Aを媒介して光子Xを上書きコピーしたもの。マレがBだとしたら、上書きされるXは、Xの周りにいる人が感じる「喪失感」なのではないかと思う。安定した生活を奪われ、確実に終わりに向かう世界のなかで、何かを失っていく不安。それをマレが埋めるからこそ、マレは会ったばかりの人とすぐに打ち解ける。そしてマレは喪失感のあるところに跳び続けるのだ。そしてマレをあちこちに跳ばすAは神なのかな。
それぞれの人の元からマレはすぐに消えてしまうわけだが、また会えるという希望から人は生きる気力を得る。「会うために生きよ」それがこの物語のテーマではなかろうか。
そんな妄想ができるほどに、抽象的な表現が物語に頻繁に登場する。そしてそれが静謐な世界観を生み出す。
惜しむらくは「感動の青春長篇!」という帯の文言だろうか。知人は「青春ものが好きな人に読んで欲しかったんだよ」と言うが、どう考えても本の内容とミスマッチな気がする。ネットで買ったので帯はわからなかったが、本屋で見たら買わなかったぞ。いや青春ものが嫌いってわけじゃないが、なんとなくこの小説を読みたい人に届かずに損をしている気がするのだけどね。
難しい話がときおり出てきて、抽象度の高いパートも多いため、しんどい部分もある。それでも読み続けられるのは、それだけマレとマレを取り巻く人が魅力的だからだ。テクノロジーの中にある温もりが生きる意味となり、一筋の希望の光が射すこの物語をぜひ堪能してほしい。