平穏と狂気が重なり合う芸の道。「仏果を得ず(三浦 しをん著・双葉文庫)」

「大阪の本屋と問屋が選んだほんまに読んでほしい本」2014年選定作、らしい。その評価違わず、ほんまに読んでほしい。稀代の書き手、三浦 しをんさんが描く文楽の若手太夫の物語だ。

仏果を得ず(三浦 しをん著・双葉文庫)


若手太夫・健は、ある日人間国宝の師匠・笹本銀大夫から義太夫三味線の兎一郎(といちろう)と組むように命じられる。兎一郎への周りからの評価は「腕はよいが変人」。稽古をしようと楽屋に赴いても、師匠・先輩諸氏をほったらかしで、いつもいない。銀大夫からいさめられ、やっと稽古を始めたと思ったら、別の太夫とやっている演目を延々と付き合わされる。しかしポツポツと言葉を交わし稽古をするなかで、次第に兎一郎は健を認めるようになり、兎一郎の三味線によって健の芸はさらなる高みにひきあげられる。そんな折、ひょんなところから健は恋に落ちた--。

文楽のことを相当の取材をされたのだと思うが、そうして得た知識を昇華させ、あたかも自分が経験したことを書いているような、いや、もはや経験を超えた次元に物語を導いているところに著者の力量を感じる。

文楽とは、人形浄瑠璃のことで、大阪発祥の文化だ。1955年には重要無形文化財に、2003年にはユネスコの無形文化遺産に登録された。情景描写や登場人物の心情を語る「太夫」、幅広い音色で物語を描き出す「三味線」、登場人物を演じる「人形遣い」が三位一体になって生み出す芸術だ。

文楽を興行するのは、なんと一座だけ。その一座のメンバーである技芸員さん(人形遣い、義太夫、三味線の演者の方)もろもろ約90人が、全国を順繰り公演してまわる形態らしい。物語でも触れられているが、その90人が何十年もの間、年中行動を共にしているので、濃密な人間関係が形成される。

緻密な構成

テーマが文楽ということで、物語の各章には文楽の演目の名前がつけられている。第1章は「幕開き三番叟(まくあきさんばそう)」。幕開き三番叟とは、毎日公演の幕が上がる前に、舞台を清める意味で三番叟人形が踊る儀式だ。物語もこの儀式になぞらえた序章となっている。

私の一番好きな章が、第3章「日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)」だ。庄司の娘・清姫は、皇位継承の争いを嫌い、僧侶を装って投宿していた桜木親王と恋に落ちる。しかし、桜木親王はすでに恋人がいた。桜木親王は庄司で恋人と落ち合って抜け出し、船で川を渡る。清姫も後を追うが、桜木親王が船頭にお金を渡し、清姫を船に乗せないように図ったため、川を渡ることができない。嫉妬に狂った清姫は大蛇に身を変えて激流を渡る。物語になぞらえて、この章ではさまざまな嫉妬がうずまいていく。

この章の最後で、健は恋に落ちるのだが、その描写がとても好き。そこに登場したチャーハンが、物語を読み終わった後も、強く印象に残っている。チャーハンを食べながら、自分の中に激流が生まれる。なんてことはない描写が示す激情。

各章の演目のテーマと絡めて物語が展開され、ちりばめたいくつもの伏線が後の章で丁寧に回収される。作者が練りに練った緻密な構成を存分に味わってほしい。

美しい語りの描写

もう一つの読みどころが、健が紡ぐ語りの描写だ。文楽は人形遣いが全面に出てくるが、この物語では、太夫が軸になっている。時には感情移入できない物語を、どのように解釈して自分だけの表現にしていくか。そこが太夫の腕の見せ所だ。

例えば第6章「心中点の網島(しんちゅうてんのあみじま)」。妻子ある紙屋治兵衛が、遊女小春に仕事そっちのけで入れあげ、たまりかねた妻のおさんが別れてほしいと小春に手紙を出す。小春は、おさんの気持ちを尊重して治兵衛と別れるが、治兵衛は未練タラタラでおさんの前でも嘆きを隠さない。
なぜ治兵衛はおさんの前で小春へのグチをこぼすのか。なぜおさんは、働きもせずフラれた屈辱を延々とグチでぶつける治兵衛を愛し、関係の修復を願うのか。健は感情移入ができず、兎一郎はそんな健に苛立ちを隠さない。

悩んだ末、健は、経験した日常の出来事から、小春が遊女であることからの偏見が夫婦に色濃く影を落としているという結論にたどり着く。小春を一段低くみているがために、治兵衛はフラれたことに屈辱としておさんと共有しようとする。おさんも小春をたかが遊女とみているために、治兵衛のだらしなさを許そうとする。愛と偏見に満ちた世界、それが人間の本質なのだ。このようにして太夫は人物像を浮き彫りにし、登場人物を的確に演じ分けていく。

そして、人物像を練り、表現を磨き上げた太夫によって語られる物語は、作者の編み出す言葉によって、流れるような動き、鮮やかな色彩、時空を超えた奥行きを生み出す。この描写こそ、作者の真骨頂だ。

平穏と狂気

物語全体を大きく占めるのは、健と師匠の銀大夫を中心とした軽妙な会話だ。これが物語を不必要に重くせず、テンポよく進行させるかじ取り役を担っている。
銀大夫が健を振り回す場面にも、弟子に対する深い愛情が感じられる。最初は相方になるのを渋った兎一郎も、健が物語の解釈に迷ったときは、一緒に考えてくれる。そして、周囲の技芸員が健にかける言葉にも親愛の情がこもっている。これが何十年もともに時間を過ごす者へのまなざしだ。

しかし、同時に芸にかける技芸員の狂気が、その平穏な日常のところどころに透けて見える。圧巻の描写が人間国宝・銀大夫と実力・人気ともに肩を並べる砂大夫の登場シーンだ。砂大夫は後半にちょっとだけ出てくるのだが、その存在感が物語に大きな影響を与える。砂大夫が才能ある者への嫉妬と、自分の才能の限界を健に告白するシーン。人間国宝と肩を並べる砂大夫が、だ。芸のためなら研鑽を積み重ねた自分自身さえも否定する。なんという厳しい姿勢。

「仏果を得ず」というテーマ

「仏果を得る」とは、成仏するという意味だ。最初読んだ時、本のタイトルがなぜ「仏果を得ず」なのか、よくわからなかった。実は、最終章のタイトルにも使われている「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」の六段目、「与市兵衛内勘平腹切」のセリフで出てくる。

「与市兵衛内勘平腹切」のあらすじをざっと紹介しておこう。
勘平が恋人おかると逢引きしている間に、主人が刃物を殿中で振り回した罪で切腹してしまう。主人の一大事に駆け付けられなかった勘平は、切腹で詫びようとするが、おかるに引き留められ、おかるの実家へと落ち延びる。そこで猟師で生計を立てるも、ある日誤って人を撃ってしまう。撃った人の懐を探ると大金が出てきた。仇討に必要な大金。貧しい暮らしでは到底手に入らない大金。思わず大金を持ち帰ってしまう勘平。実は撃たれた男は、おかるの父を殺し金を奪った人物だった。勘平が奪われた金を持っていたため、おかるの父を殺した疑いを向けられる。
そこへ主人の仇討に共に向かわんと訪ねてきた原郷右衛門が、それを知り勘平を責め立て、立ち去ろうとする。勘平はそれを引き留めようと腹に刃を打ち立てる。そこで原郷右衛門が、

「思へば思へばこの金は、縞の財布の紫摩黄金。仏果を得よ」

といい、勘平は最後の気力を振り絞って叫ぶ。

「ヤア仏果とは穢らわし。死なぬ死なぬ。魂ぱくこの土に止まって、敵討ちの御供する」

勘平は生きて仇討をせん、とはねつける場面だ。第2章で兎一郎が苦い思いをこめていった「長生きすればできる」という言葉。第7章で「生きて生きて生き抜けば、勘平がわかる」と言った幽霊の言葉。これらが静かにつながり、やがて大きなうねりになる。作者が捉えたテーマだ。

最後大円団になったのがちょっと残念ではあったな。傑作だけに、違う余韻を味わいかった。

1回目は、軽妙な会話に引き込まれ、楽しく読める。2回読むと、芸の道にひた走る狂気が怖くなる。3回目は、作者の技量が怖くなる。

読むほどに痺れる本。

プロフィール
提出用写真フリーライター 山際貴子 東京都中野区在住のフリーライターです。 IT系を中心に企業取材、インタビュー、コラム執筆を行っています。お仕事のご依頼はこちらからお願いします!→お問い合わせ

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